私の周囲にある白といえば、エアコンの白、CDプレイヤーの白、デスクスタンドの白、携帯の白、TOYOTA1600GTの白、等があります。それぞれにすべて異なる白です。篠原さんの白の家はどの白とも異なります。それは記憶の白だからです。
読み終えて、その間に二つの住まいの契約を交わして、幾度目かの夜のようです。私は特に篠原一男さんへのオマージュを書きたい訳ではありません。彼の格闘時代は私の習作の時代でした。ただ、ひたすらに彼の一言一句が降り注がれていた時代でした。動機の希薄な、或いは他人事(別にあなたが設計する必要もなさそうな)の様な嘘寒さに辟易してきただけです。主題なきものつくりは、確かにいつか何処かでみた様な…、ものばかりでしょうね。
SD選書住宅論篠原一男再読中です。住宅は美しく無ければならない。(篠原一男)美しいものだけが機能的である。(丹下健三)美と機能は単独では語り得ない。(竹ノ内淳)
移築が実現されて本当に良かったですね。心柱と小屋組の関係が明らかにされましたが、一つの部材のごまかしもなく、そのまま、あらわしでもいいのではないかと思いたくなるほど端正な納まりです。キッチンとWICが増設された他は、オリエンテーションの違い位でしょうか?新しい敷地がやや狭いため、少し窮屈そうですが、仕方ないですね。都市の、そして住宅の熟成とはこういう事例の事を指すのです。どれだけ時間が過ぎても、陳腐化しない原案の力強さに感服しました。若き建築家の皆さんにも、是非、頑張っていただきたい!です。
私も当時篠原氏と同じ質問を講演後の磯崎氏に問うてみたことがある。あなたが今考えておられることを10年先にも担保できますか?その問掛けに対する彼の解答は、横断であった。時間の流れを横切る!とは。 なんて奴だと正直に思った。直感的に、ズルイな、と思った。篠原の白の家は磯崎流の横断等とは、根本的に異質であった。作り手も作品も存在しなくなった今でも、私は白の家をたった今、この瞬間にも再現できる。建築とはそのようなものだ。
篠原一男の言葉。それはやはり私が日本の様式と接近して来たと言う事に直接現われているわけです。時間に耐えてきた様式を用いることによって時間にたえうるだろうということです。今、いろいろな試みの住宅が見られますが、私はそれらがまず時間にたえうるかどうかを判断してしまいます。それは自分なりのやり方ですが、アクロバットというのはそれだけのものであって、次に何かが出て来そうならば、つまり何かの先どりの可能性が感じられればそれを評価するわけですが、そうでないものは関心はもたないのです。1968
記憶が正しければ、この作品は都市計画道路が事業決定されていたにも関わらず解体される事を前提として建てられた訳です。しかし、消失してしまうにはあまりに残念な気がしてなりません。
心地良い緊迫感と知的な構成が感動の要因で在ることは間違いないのですがさらに見えない部分で、つまり屋根を支える柱と受け材の関係がその後の都市の野生へ生まれ変わる予兆となっていた事に注目したいとおもいます。篠原さんはよく文脈という言葉をつかわれていましたが文学的な表現等ではなかった事もやはり大切なポイントです。
