床があり壁があり天井があるだけで、それらを建築と呼ぶのなら、建築とはなんと退屈なものだろう。
落水荘
そろそろ誰かが、こんな家なんか興味ないと宣言できる程の人が出てきても良さそうな気もしています。大学の授業で良いも悪いもなく近代建築の3巨匠の一人の代表作として、一方的に洗脳される作品の一つです。この建築を未だにオーガニックアーキテクチュアだと主張される人がいるのでしょうか?
まだ世の中の情報が瞬時に伝わらなかった時代に、例えばこのカウフマン邸で執り行われた或る種の神懸かり的な建築行為はさぞかし、彼をして神と言わしめる、絶望的に閉鎖的な時代の一部であったということは否めませんね。
この惑星の構造物のなかで比較的浮遊感を感じさせる工作物ですが、やはり基礎で支えなければ成立しない似非構造物です。重力を感じながら足元を硬直させられ、腕と頭、或いは胴体をクネクネねじらせてみたところで、滑稽にしかみえません。直立不動のまま立ち尽くすだけという姿は、なんと不自由な存在でしょう。やがて修理を終えれば飛びさって行く月(異星人工衛星)よりも不自由で、機能停止状態にあるこの惑星の寿命は既に消費期限切れを迎えています。この星で、建築と呼ばれる粗大ゴミは、あとわずかな宇宙的時空間のなかでひたすら増殖を続けて行かざるをえない模様です。彼らには自らの創作物をコントロールする能力すら欠如しているわけです。
施主の奥様は、あまりこの家が好きでは無かった様ですが、恐らく設計者の人間性にも問題があったからでしょう。天才と何とかは紙一重といわれますが、もし彼が天才建築家と呼ばれていなければ、単に生活破綻者というだけの事。仕事をする度に世間を狭くしてしまう建築家等、腐る程いますが、彼は歳に関係無くトラブルに見舞われる度に、新作を生んで行くのです。私の身近にも、そんな地方建築家がいますが、困ったことです。
小学生の頃、一番好きだった本がライトでした。その中でも落水荘やユーソニアンハウスを頭の中で創造しながら歩き回り、まるで自分がその家のオーナーになった気分で一人楽しんでいました。プランを見る時は、真っ先に暖炉と食卓の置き方を注意して見る様にしました。吉村順三さんの部屋の重心と言う言い方が、良く理解出来たのも、幼い頃のライトの作品集を眺めていたことが下敷きになっていたからでしょう。
父のアトリエにも畳一枚くらいの落水荘の写真が飾ってありました。私にとってカウフマン邸は極、日常的な作品です。


