個人の住宅、それも自邸の設計ならいざ知らず、極めて公共性の高い建築を一人の人間が勝手に決め付けてしまう方式になんの疑問も感じない無関心さが、いつまでたっても成長しないこの国の駄目なところです。
大屋根は空が見えるのがコンセプトだったと思いますが、、、
お偉いさんの発想と現実のところはもう少しメディアに掘り下げてもらいたいです。
建築家の造るものを比較的簡単に作品と称してしまうのですが、現実の日常の中にさらされた、その人工環境というのは一体何ものなんだろうか?と、ふと思う事がある。ある日突然、自分とは無関係な、お偉い先生様が考えた、建物が忽然と姿を現すのだ。良いも悪いもない。はじめからこうなのだ!と決め付けられてしまう。いくらコンペを開いたとはいえ、私が審査したわけでも無し、ましてや出来レースのコンペ等何おか言わんやではないか。
理想は無人駅なのですが、饒舌な建築手法からは、最も遠い距離にあります。それでもホームレス達が易々と空間占拠していく、その様なしたたかさが私には明らかに欠如している事を思い知らされたりもします。ともあれ、都市に時代を重ねる事には想像以上のエネルギーが必要のようですね。
この建築コンペも都庁舎の時と一緒で、出来レースだったわけですが、梅原さんやレンゾピアノやハンスホライン等が推した安藤案に決まっていれば、今頃風景も変わっていた事でしょうね。
基本的にこの設計者の作品は未だに理解不能のままです。饒舌な表現は常に残滓の予感を引き連れているのです。もともと、様相とは気配であって実態では有りえません。たとえば、ガウディの饒舌さ等とは根本的に異なる地点にあるような気がします。
デザイン以前のホテルとデパートと駅の超巨大複合施設が京都駅に作る必要があったのかという問題がありますが、それはそこに京都タワーがある地点であったのだと思います。
原広司氏 他のデザイン設計による京都駅ビルは 賛否両論あったようですが、個人的に 恥ずかしいとも思えるほどのものだといつも感じます。
らしさの全くないものにしてしまい、唸るほどのガッカリ感です。
このデザインを最終的に 良しとしたのは何者なのでしょう・・
古き良き物を守り残されて来た事をも馬鹿にしているようにさえ感じます。
宮大工など伝統的で高度な技術を持つ人や京都に深く関わり努めてきた人などの意見や考えなどを役立たせて貰う事などしなかったのでしょうか???
途轍もなく悲し~い事です。
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